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若さゆえのおろかさは、未来への糧

9月17日に公開される『オーバー・フェンス』。孤高の作家・佐藤泰志の函館三部作を映画化した『海炭市叙景』(熊切和嘉監督)、『そこのみにて光輝く』(呉美保監督)。スマッシュヒットを飛ばした2作に続き、最終作を担うのは『苦役列車』の山下敦弘。取材では今作に対する思いと、監督という仕事について聞いた。

まずは、今回監督した『オーバー・フェンス』での話から。冒頭でも挙げたように、前2作品はそれぞれ監督は異なるもののいずれも高い評価を得てきた。そこに続いての3作目、しかも完結作。プレッシャーもあるなかで撮影にはどのように挑んだのだろうか。

「今回はとにかくひとりひとりをしっかりと描くのが僕の役目だと思っていて。この映画は登場人物それぞれがスネに傷というか、ワケアリな過去だったり、影の部分を持ってるんですよね。バツイチアラフォー男や、変わり者のホステス、元ヤクザに、半分ニートな若者、みんな何かしら抱えて、もがき苦しみながら生きてる。その人生をちゃんと映し出したかった。オダギリさん演じる白岩と、蒼井さん演じる聡が話の主軸ではあるけど、でも全員が主人公くらいの意識で撮りました」

さらに今回の撮影では、“ヨーロピアンビスタ”という近年あまり使われない映像比率での撮影にチャレンジ。通常、ハリウッド映画などでは、迫力をもたらすためにアメリカンビスタがよく使われる。それに対して横が少し短いヨーロピアンビスタは細かなディテールにこだわるフランス映画などで好まれてきた。カメラマン近藤龍人(函館三部作すべてを撮影)による提案から生まれたこの撮影法は、また新たな世界観を生み出した。

「錚々たるキャストで、一見派手な映画にも感じるけど、実は小さな町の小さな話なんですよね。だからこそ、近藤君はヨーロピアンビスタで撮りたかったんじゃないかな。役者のパワーをバン!と押し出すんじゃなくて、函館という町のサイズ感にとけこませる。それにはヨーロピアンビスタはピッタリだった。そもそも、撮影は近藤君にすべて任せようと決めていたんです。撮影に関しては僕より絶対センスがあるし、画面の演出もうまい。画が良すぎるのが玉に瑕なぐらい(笑)」

昔ながらのスクリーンサイズで切り取られた、ノスタルジックな函館の町。画面の隅々まで惹きつけられるスクリーンサイズでの試写は話題になり、連日満席。補助席が出るほどの盛況で終わった。完成した作品は自分で観ても新鮮なものだったと言う。

「たぶん『オーバー・フェンス』は今までの作品で一番自分の“クセ”が出てない作品ですね。いつもなら頑なに題材を自分に引き寄せて作るんだけど、撮影を含め、今回はあえてそれをしなかったんです。原作もある話だし、自分の作品である以前にシリーズ最後となる作品でもあるから、自分の色ややりたいことを極力消していこうと。結果、三部作のなかでも一番フラットなものになった。その分、人によって感じ方や映り方が違うし、とらえ方も違うかもしれない。でもどんな観え方をしていても、“この映画で得たものが自分を変えてくれそうな気がする”そんな気持ちになれる映画だと思います」

彼の映画人生、そのルーツは幼少期にさかのぼる。多くの監督がそうであるように、小さな頃から映画が好きだった。周囲がアニメを観ているなかで、背伸びして実写映画をよく観ていたという。そんな彼が初めて映画を撮ったのは高校生のとき。

「使わずに放置されていた父のホームビデオで『ロボコップ』のパロディ映画とかを遊び半分でつくったりしてましたね。その頃は、監督をやりたいというよりも、映画づくりの真似をしていることが楽しかった。他にも『ゾンビ』、『ビー・バップ・ハイスクール』とか、もちろん撮り方なんてわからないからひどいもんでしたけど(笑)。だからミシェル・ゴンドリー監督の『僕らのミライヘ逆回転』(※)を観たときは、感動しましたね。同じことしてる奴らがいるって(笑)」
※2008年に公開されたジャック・ブラック主演のコメディ映画。レンタルショップの壊れたDVDの代わりを作るため、ハリウッド映画をホームビデオで勝手にリメイクしてしまうというおバカな男たちの話。

その後大阪芸術大学で映像を学び、卒業制作作品となる『どんてん生活』(1999年)、2作目の『ばかのハコ船』(2003年)と、共に高い評価を得る。そして3作目となる『リアリズムの宿』(2004年)で早くも商業映画デビュー。前2作同様、撮影:近藤龍人、脚本&照明:向井康介という現在の日本映画界を担う同級生トリオで挑むが、ここで初めて映画撮影の苦労を知る。

「当時3人とも24歳とまだ若くて、体力と気合だけはあるから、雪が多い冬の鳥取という過酷な状況での撮影にも関わらず、周りを顧みることなく突っ走ってしまって。スタッフやキャストがボロボロに疲弊しているのにも気づかず、逆に追い込むようなことまでしてしまったり。当然みんなついてこなくなって、3人はどんどん孤立していって、最終的に他のスタッフからめちゃくちゃ怒られて。『映画はみんなで協力して撮るものだろう』って、そんな当たり前のこともわからなくなってたんですよね」

周囲からの孤立、迫る納期、役者との距離感もうまくとれない、自分に対するフラストレーションがたまる。そんな状態で完成した『リアリズムの宿』だが、予想以上に高い評価を集めた。

「撮影が終わるころには “もう二度と撮りたくない”とすら思いましたね。でも単純なもんで、喜ぶ周囲の様子を見てたら『あ、俺いけるかも』って。1年経ったら痛みもすっかり忘れちゃって(笑)、色んな方々の協力のもと、今もしぶとく映画監督続けてます」

若さゆえの意地やプライド、そして愚かさがあった。今となっては不要だとわかることでも、当時はそうではなかった。“俺はわかってる、何かを持ってる”と自分に言い聞かせ、背伸びもしてきたが、「今はもう、わかってる”ふり”をするのはやめました」と笑う。先日40歳の誕生日を迎え、人生の折り返し地点で見えてきたこと、変わってきたこともある。

「昔はカット割りや完成形をガチガチに決めて進めたりもしてたけど、最近は自分が考えたゴールじゃないほうが面白くなることも多いのかなって。役者やスタッフの潜在能力を生かしつつ、まとめていく。そういう演出をするのが僕の一番の強みで、逆にそれができなくなったらおしまいだと思ってます」

若い頃は、頭のなかで構想しているものをカタチにするのが監督の仕事だと思っていた。それがいつしか、自分の呼吸の中でしか展開できない映画に窮屈さを感じるようになってきた。

わからないものに強引に答えをつけることはせず、無理に引っ張っていくこともしない。信頼できる相手にはすべてを任せる。それでもなお、完成する作品には彼にしか作れない“世界観”がある。そしてその“山下ワールド”に惹かれる俳優は多く、オファーも絶えない。みなスクリーンに広がる、おろかで、素晴らしき世界で、何かを得るために。

蒼井優 独占インタビュー|この世界で狂うのは簡単、私は私でいたい